尊敬する作家の1人、立花隆の「知のソフトウェア」は作家、ジャーナリストの「知」のインプットとアウトプットのプロセスを描いた名著である。

ロッキード事件というのは、まだ小学生低学年、右も左も、勿論、内閣も国会も知らなかった。後にたった1人のジャーナリストが日本の政権を転覆させるに至る過程に多大な影響を与えたのだと知り、非常に関心を抱くようになった。この本には情報を如何に構築していくかの方法論の一つとしてスクラップ作成があげられているのだが、ここでのロッキード事件でのスクラップ製作の紹介はとても印象深いものがある。

 最近、考えさせられる。考えること自体が無駄だろうとも思う。自分が歳を取ったせいなのか、昭和の方々に手を掛けて頂き育てて貰ったせいなのか、単純に自分の環境なのか、根拠のない自信というのか、知らなくても、飄々と口にする連中を目の当たりにする。そのように感じる機会がとっても多いのだ。つまりだ、先に紹介した「知のソフトウェア」から考えると、作家の立花隆氏にはとっても失礼とは思うけれど、この本のこの連中のそれを重ねてみると、そもそも根本的にインプットしてない。本を読んだり人の言葉から学んだり、何かを実践してみたり、そんな姿勢が微塵もない。それなのに、どうしてなのか、アウトプットしてる。でも、それって結局アウトプットになってない。